東鳳翩山山頂から見る鴻ノ峰 | 大きな地図で見る |
歩行距離 | 2.2km |
所要時間 | 1時間35分 |
累積標高差 | (+) 279m (-) 279m |
コース | 山口大神宮13:15 → 鴻ノ峰14:10 → 山口大神宮14:50 |
一昨日ほぼ5ヶ月の乗船期間を終え、家に帰った。乗船期間中は運動不足で脚がかなり弱っている。足慣らしのため、手軽に登れそうな山口市にある鴻ノ峰に登ることにする。
13:15山口大神宮の駐車場に車を停めさせてもらい出発する。付近に適当な駐車場はなく、今日は車も少ないので申し訳ないが停めさせてもらいます。神社の広い石段を登り外宮の奥から山道に入る。周囲の木々は紅葉真っ盛りでとても美しい。小祠が祭られた巨岩を通り過ぎ。整備された登山道に入る。石段の急登を登っていく。上の部分がない鳥居を通過する。しばらく登って行くと右側の視界が開け、眼下に山口県庁と市街地を見る。秋の景色はカラフルで美しい。10個連なった赤い鳥居を通り抜ける。
急登を登り展望広場を通り過ぎると広場になった郭跡がある。そこには高嶺城跡の案内板があり、歴史の勉強をする。高嶺城跡は、長い尾根道の上に築かれた細長い城だった様だ。KRYとTYSのテレビ塔を通り過ぎ、舗装道を横切る。急登を登りあずま屋のある広場に出る。城跡のあった広い尾根道を行き、最後の坂を上り森になった広い最長部郭(砦)跡に到着する。鴻ノ峰山頂である。その広さは高嶺城が大きな城であったことを想像させる。周辺には大きな石垣や井戸跡が残っている。山頂の木々の間から東鳳翩山と西鳳翩山などの山々が見える。
下山は往路を下る。14:55山口大神宮の駐車場に帰着する。これから、山口市のスポーツ用品店ヒマラヤに行き何か買うことにする。
高嶺城跡(こうのみねしろあと)- 現地解説
高嶺城は、大内氏最後の当主大内義長が毛利の侵攻に備えて弘治二年(1955)に築いた城です。翌年、義長は形勢が不利となり長門国(下関方面)に逃れましたが、義長が去った後、毛利氏は城の改修をし、市川経好を城番として置きました。永禄十二年(1569)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれています。
元和元年(1915)、徳川幕府から一国一城令が出されたため、毛利氏は萩指月城を残し、山口高嶺城、長府串崎城、岩国横山城を破却することとしました。寛永15年(1638)高嶺城は廃城となりました。高嶺城跡のある鴻ノ峰は標高338mの丘陵です。城跡は頂上の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪
群が広がっています。主郭やその周囲の曲輪には石垣が巡らされ、礎石や瓦片が発見されています。なお、史跡大内氏遺跡は館跡・築山跡・高嶺城跡・凌雲寺跡の四遺跡で構成されています。
山口大神宮から出発する。 |
山口大神宮の木彫神馬 |
山口大神宮 |
山口大神宮の石段を登って行く。 |
外宮の奥に登山口がある。 |
大きな岩がある。 |
視界が開け山口市街地を見る。 |
テレビアンテナがある。 |
|
高嶺城址 |
大内氏最後の当主大内義長が毛利氏の侵攻に備え築いた城 |
↑ 目立つ木 高嶺城址(頂部郭跡)・鴻ノ峰山頂(338m)に到着する。→ |
|
鴻ノ峰山頂にて |
木々の間に東鳳翩山が見える。 |
展望公園からの山口市街地が見える。 |
ザビエル記念聖堂が見える。 |
稲荷大明神 |
総合登山記録 山口県の山 中国百名山 九州百名山 四国百名山 日本百名山 関東の山 南アルプス 屋久島縦走
航海記録 旅の記録 海の風景・ギャラリー 沖縄 山で見た花
Copyright(c)2014 軽きゃんぱー里山放浪記. all right reserved.